週刊朝日に連載したエッセイ「ずばり東京」が好評を博したため、その褒美に何が良いか問われた開高健は、即「ベトナムに行かせてください」と頼んだ。 そのベトナム行きは当日まで妻・羊子には内密にされていたという。1964年 11月15日、秋元カメラマンと共に出立。
● 携行品
![]() ベトナムへの渡航パスポートと従軍記者証 |
![]() 弾よけのまじないを彫り込んだジッポ |
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左:ベトナムに携行した日の丸ベトナム語で「私ハ日本人ノ記者デス」「ドウゾ助ケテクダサイ」と書いてある 右:ベトナムの地図無数の開高健による書き込みが見られる。実際の足取りは地図と年表のページ よりご覧ください。 |
● 報道と写真
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1964年12月2日付け サイゴンデイリーニュース現地の新聞が「日本人小説家・開高健」にインタビューしたもの。 反政府デモに驚いたこと、特に「私達は高齢者、女性、そして子供たちがいかなるデモに参加するのを今まで見たことありません」と、語る。このデモへの驚きは、後の「ベトナム戦記」に詳しい。 |
![]() ニュースリリース開高による赤線などの書き込みが見られる。 |

少年の処刑
短い叫びが暗がりを走った。立テ膝をした10人のベトナム人の憲兵が10挺のライフル銃で一人の子供を射った。子供はガクリと膝を折った。胸、腹、腿にいくつもの黒い、小さな小さな穴があいた。
銃弾は肉を回転してえぐる、射入口は小さいが射出口はバラの花のようにひらくのである。やがて鮮血が穴から流れだし、小川のように腿を浸した。肉も精神もおそらくこの瞬間に死んだのであろう。しかし衝撃による反射がまだのこっていた。少年はうなだれたままゆっくりと首を右、左にふった。
「だめだ、だめだ。まだだめだ」
そうつぶやいているように見える動作だった。将校が近づき、回転式拳銃をぬいて、こめかみに一発“クー・ド・グラース”(慈悲の一撃)を射ちこんだ。少年は崩れ、うごかなくなった。鮮血がほとばしってやせた頬と首を浸した。
『ベトナム戦記』
● マジェスティックホテル
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![]() 103号室に今もかけられているプレート(複製)日本語とベトナム語で開高健が滞在したことを記したプレートがかけられてい る。日本語表記がおかしい。 サイゴンマジェスティクホテル開高健は、マジェスティック・ホテル103号室に滞在して、ここから、週刊朝 日編集部に電話送稿をした。 |
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マジェスティクのマティーニマジェスティクにはある年、三ヶ月近く泊まったことがあり、その後きたときには、夕方になればよく飲みに出かけたものだった。世界各国からきた無数の新聞記者やアメリカの将校たちが寄ってたかって鍛えあげたのだろう。ここの酒場のバーテンダーはナイフの刃のように研ぎあげたドライ・マティーニが作れるのである。
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