開高健記念会

茅ヶ崎市 開高健記念館「開高健の大阪」

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企画展:開高健の大阪

大阪時代の交友

多感な少年・青年期を過ごした旧制天王寺中学校のころ、同人誌「えんぴつ」での人生を決定づけた人たちとの出会いなどは、人間開高健を形づくっていきます。

● 天王寺中学校

50期生の東京総会 昭和63年秋 作家の開高健が、野放図に太った姿を現し、胴間声をあげ、一刻を元気に飲み、かつしゃべって帰った (作花済夫) 同窓生に贈った色紙

遅すぎた春

遅すぎた春   開高 健

…私は昭和五年の生まれである。今年で四十七歳になる。生まれも育ちも大阪で、小学校は北田辺尋常小学校。中学校は大阪府立天王寺中学校という。…私の世代は教育がすべて旧制の最終で、小学校は卒業したとたんに ・国民学校・ となり、中学校は ・高校・ となり、その上の高等学校は一年在籍しただけでほうりだされて ・大学・ となるか、消滅するかした。すべて旧制の最終で、新制の最初となる。

…小学生の私と、中学二年生までの私は、黄顔の美少年で、素直なおびえがちの、釣りと本の好きな、並みの秀才だった。中学二年生のときに本格的な勤労動員がはじまって教室から流出したきりになったが、それで秀才がすっかり姿を消し、病弱が消えて頑健になった。つぎに敗戦というドンガラがきてしたたかな暗峡に追いこまれ、素直がすくみあがってしまった。どんな平和の時代でも、わが国では、長男に生まれついた男は職場でも家庭でも、終生、孤独癖を城として暮らしていくことになるが、私のその城は、敗戦の年、中学三年生、十三歳のときにできてしまった。

焼跡を栄養失調でさまよい歩くうちに、素直で、おびえがちで、本好きな少年は、ひねくれた、おびえてばかりいる、本好きの少年になった。パン屋の見習工になって粉まみれで働いている私のところへ級友の一人がやってきて、おずおずと、中学校の卒業式はおこなわれないことになったといって去っていった。…このあとの旧制高校の入学式、その一年後の終了式、そのあとの新制大学の入学式、その卒業式、どれにも私は顔をださないですごしてしまい、以後、今日に至る。つまり私はいろいろの軍歌や、ザレ歌や、流行歌はその時代、時代につれて歌ったけれど、とうとう学校の式で ・仰げば尊し・ は歌わずじまいであった。

天王寺中学校の五〇期生の同窓生諸君は、毎年、大阪や東京で一夕を持ち、小さな会報を発行し、私のようなドロップ・アウツのところにも欠かさず送ってきてくれる。私はそれを読んで日頃の塵労や塵苦を忘れ、ひとときほのぼのと心ほぐれるのだが、つぎの年の一夕の通知がくると、外国にいるか、何か火急の仕事に追われるか、なんとなく思いぞ屈するかして、結局のところ毎年出席できず、きまってそのあと夜ふけに自分を責めることになる。それがもう二〇余年になる。

昭和二十三年の天王寺中学校は新制高校への切り替えやら、何やら、いわゆる ・敗戦のドサクサ・ にまぎれて、その五〇年の校史ではじめて卒業式を持つことができなかった。こういう中学校は、当時、日本全国にずいぶんあったのではないかと思う。…そこで、某年、わが級友たちは母校の講堂を借りて、 ・仰げば尊し・ を合唱して、二〇余年たってから卒業証書の授与式を開こうと決心した。その通知をもらったか、もらわなかったか、私はまたしてもどこか外国をほっつき歩いていたから、帰国してしばらくたってから聞かされた。それからしばらくして大阪在住の級友が私の卒業証書を東京在住の友人にわたしてくれ、その友人が私に、日あって、わたしてくれた。それが突然だったもので、家へ持って帰って夜ふけに、・昭和二十三年三月三日・という字を見たりすると、荒寥のさなかに湯がこんこんとほとばしってきて、しばらく眼があげられなかった。…

続きがあります…

上:同窓会出欠ハガキ
左:同窓会報 50期生全員による数行の「開高君の思い出」が寄せられている。
下:同窓会から受賞記念に贈られた万年筆に対しての礼状

● 向井敏氏に宛てた葉書

友人の作家向井敏氏に宛てた葉書には、細かな字で文学論が書き綴られていて、開高健の熱い志がうかがえる。

左上:24年5月13日
右上:25年9月8日
左下:25年12月2日
「例の牧羊子が……」という記述が見える。
右下:フランス語でしたためた新年のあいさつ。 ぼくはとても惨めだ。生きていかなきゃならないことを考えるとね……
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