開高健記念会

茅ヶ崎市 開高健記念館「開高健『ずばり東京』」

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企画展:開高健『ずばり東京』

開高健の見た東京

東京は日本ではないと外人にいわれるたびに私は、いや東京こそはまぎれもなく日本なのであると答えることにしている。都には国のすべての要素が集結しているのだ。ものの考えかた、感じかた、職種、料理、下劣、気品、名声ある変化の達人の知的俗物、無名の忍耐強い聖者たち、個人的清潔と集団的汚濁、繁栄と貧困、ナポレオン・コニャックとラーメン、絶望と活力、ありとあらゆるものがここに渦巻いている。ここで思いつかれ、編みだされた知恵と工夫と狡猾が地方を支配する。

(『ずばり東京』(文春文庫) 開高健 前白―悪酔の日々―)

地図で見る「ずばり東京」

「ずばり東京」は、1963年10月から翌年11月まで、『週刊朝日』に写真とともに掲載され、当時の東京の姿を鋭く切り取って描きました。57回にわたる連載の中から、その頃の姿をよく映した写真のあるものを選び、地図と合わせて紹介します。

「ずばり東京」を追う

第1回 空も水も詩もない日本橋

高層ビルと高速道路に情緒を失いつつある老舗街

(写真:日本橋)
全国里程標の起点となっていた日本橋もご覧のように高速道路に押さえこまれてしまった

すべての橋は詩を発散する。…しかし、いまの東京の日本橋をわたって心の解放をおぼえる人があるだろうか。ここには“空”も“水”もない。広大さもなければ流転もない。あるのは、よどんだまっ黒の廃液と、頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路である。

(昭和38年10月4日号掲載)

第3回 これが〝深夜喫茶〟だ

どの顔にも生活の疲れが見え、水族館のフグのようだ

(写真:池袋)
深夜喫茶の利用者は、やはり若い人が多い(3時半、池袋で)

一つの小さなテーブルに向かった二つの椅子はまえを向くしかないので、彼ら、彼女らは汽車にのったように行儀がよい。どの顔にも“生活”のヤスリの跡があったように思う。朝から晩まで一日じゅう追いまわされて、やっとここにきて息をついた、というような表情がある。彼らがどこではたらいているのかは聞かなかった。おそらく新宿界隈の大衆食堂、ラーメン屋、喫茶店、酒場、あるいは工場や会社の深夜勤のあとだろうと想像する。

(昭和38年10月18日号掲載)

第5回 深夜の密室は流れる

12人のタクシー運転手が語る現代の「デカメロン」

(写真:神田)
深夜食堂でほっとひと息いれるタクシーの運転手たち(2時、神田で)

あちらこちらのタクシーの運転手さんたちのたまり場になっている食堂へでかけて、つぎからつぎへと来ては去る運転手さんをつかまえて話を聞いた。彼らの観察と記憶は奇抜な偶然性にみたされていて、意表をつくものばかりだった。西鶴と『デカメロン』をごちゃまぜにして読むような気がした。覚悟はしていたものの、呆れてうならされることが多かった。

(昭和38年11月1日号掲載)

第7回 ポンコツ横丁に哀歓あり

すべての車を2時間で解体し再生する〝ノミの市〟

(写真:隅田川堅川町=立川町)
ハンマーとタガネとペンチを使ってどんどん自動車を解体してゆく(隅田川堅川町で)

ポンコツ屋さんたちの仕事はなにかというと、くたくたになった自動車を解体して、生かせるパーツをとり、どうにもならない部分はスクラップ業者に払いさげる、つまり、自動車のホルモン屋さんのことである。…この町にはおよそ百軒ほどのホルモン屋が集結し、豪勢に稼ぐということはしないまでもみな相当の暮らしを営んでいる。資本主義の華たちを墓場一歩手前のところで食い止めて、チョコマカと、現世へ、解体された内蔵を送りかえすということで暮らしている。

(昭和38年11月15日号掲載)

第8回 〝戦後〟がよどむ上野駅

そこには不思議がある よほどの不思議がある

(写真:上野駅)
上野駅構内の警察官詰め所は、道をきく人、家出人の手配などで目の回るようないそがしさだ

帰しても帰してもおなじ少女が三日つづけて山形から家出してくることもある。小さな小さな女の子がよろよろと歩いているので、つかまえてたずねてみると、学校の運動会がいやなので茨城からでてきた小学校四年生だという。どこへゆくつもり、と聞くと、東京の姉さんの家と答える。姉さんの家はどこと聞くと、上野駅をおりてまっすぐいったら犬を飼っている家があって姉さんの家はその家のとなり、などと答えたりする。

(昭和38年11月22日号掲載)

第12回 師走の風の中の屋台

小さな灯から人びとの声は生れて、凍てついた暗い未明の空へ

(写真:銀座西7丁目)
バーのホステスやサラリーマンがお得意さんの銀座西7丁目のうどん屋台

「よッ、おれが屋台をやるとしてよッ、これはあれなのかなァ、どこへでも好きなところへひていったもいいのかなァ?」「そうだよ」…「いま勤めてるのが中小企業でよッ、かりにもう十年勤めても退職金規定ができていないということも考えられるんだなァ。だからこないだからよッ、いっそ屋台でもひいてみるかッて考えてるんだな。気楽でいいからなァ」…「気楽だわ、とにかく」「よッ。もっといろいろ教えてくれよなッ。なんしろいまの会社は中小企業でよ、なんしろ先行おっかなくてけねえの」「おいくら?」「あ、どうも。六十エンです」「それで、よッ……」

(昭和38年12月日号掲載)

第17回 佃島←→明石町 渡守り1代

佃新橋の完成とともに35年の渡船場生活をとじる老船長の哀歓

(写真)
古い気風と情緒を残す中央区佃島

「佃言葉というのは独特のもんだ。大阪弁なんだね。(早口にペラペラとやるので二回、三回、ゆっくりと繰返してもらう)ナニ、アンドルマ、ミロマカー、アンナコトシテケツカル、ミネマカー。言葉の尻に“カー”というのをつける。アンドルマというのは、あいつで、ミロマカーというのは、見ろやいというようなことです。ミネマというのは、やっぱり見ろやいってことだな。あいつあんなことしてるぞ、見ろ、見ろっていってるんだな。」

(昭和39年1月24日号掲載)

第31回 われらは〝ロマンの残党〟

テレビに追いつめられ、今や背水の陣をしく紙芝居だが…

(写真:荒川区三河島)
荒川区三河島の児童公園で

親方はにわかに大きな声を上げて、「いやいや」といった。「テレビとの戦争はもうすんだ。おちるところまで紙芝居はおちきったんだ。だからよ、ここ二、三年は業者の数がちっとも減らなくなってるんだ。やっぱり紙芝居は求められてるんだ。おれなんかそう思うぜ。子供は紙芝居が好きなんだ。それが証拠によ、近頃じゃあチャキの音が聞こえたらテレビほうりだしてかけてくる子供さえでてきてるんだ。エイトマンだの鉄人28号だのに紙芝居は勝つことだってあるんだ」

(昭和39年5月1日号掲載)

第39回 世相に流れゆく演歌師

自由民権の壮士だったのは昔の話いまは流行歌からCMソングまで

(写真)
「オレは河原の枯ススキ……」演歌四十年の“小松ッちゃん”(新宿で)

“演歌師”という言葉は演説を歌でやるところからでてきた言葉のようである。…だから、夜ふけにギターをかついで酒場から酒場へ歩きまわる人たちはエンカシというよりは、やっぱり、リュウと呼び、流シと呼ぶほうが正しいのだ。…東京都内だけでざっと千人ぐらいは流しがいるのじゃないかという噂がある。盛り場では新宿がいちばん盛んで、三味線の門付なんかもいれると、だいたい二百人から三百人ぐらいいるのじゃないかという。

(昭和39年7月3日号掲載)

第45回 銀座の裏方さん

トウモロコシ屋から手相見まで夜のアクセサリーはさまざまだ

(写真)
銀座人種にほのかな郷愁を起こさせるムシ売り

スズムシはオスだけが鳴いて、メスは鳴かない。…近頃のスズムシはメスのまわりに群がってハイボールを飲みつつ鳴く癖がある。ハイボールを飲みつつ、スズムシは羽をこするあわせるばかりか、手をたたいたり、ウインクしたりして床踏み鳴らしつつ合唱するそうである。…それにしても、一匹五十エンでも、この夜の町角で虫を売るというのは、なんと優しいことだろうと私は思う。小さな虫が哀れにもリンリンとした声でいっせいに鳴きたてるのを聞いていると、東洋の感情の優しさにうたれる。こころに水が湧く。眼が青く澄みそうだ。

(昭和39年8月14日号掲載)

第48回 縁日の灯はまたたく

巷の白鳥たちは声を失い、夜の町角の巨匠は姿を消してしまった

(写真:水天宮)
ヘビもガマもいない東京・日本橋の水天宮の縁日

東京では縁日がどんどん減りつつある。昔の三分の一ものこっていないだろうという。のこっている縁日も昔とくらべたらお話にならないくらい変わってしまった。辻講釈師、大道芸人、演歌師、ヘビ屋、ガマの油売りなどといった諸師がことごとく消えてしまった。なけなしの狡智を絞って雄弁で洗いあげる、あのさまざまなペテンのマブイ(筆者注・頭がいいの意)夜の町角の巨匠たちはことごとくどこかへ姿を消してしまった。

(昭和39年9月4日号掲載)

第51回 「うたごえ」の喜びと悲しみ

ロシア民謡からコマ・ソン、革命歌と働く若者や学生の大合唱は続くが…

(写真:吉祥寺)
リーダー(右)は忙しく動きまわりながら歌う(吉祥寺・「灯」)

いま東京には新宿に五軒、渋谷に二軒、吉祥寺に一軒、池袋に一軒、うたごえの店がある。延べ動員数は労音とほぼおなじで、十万人くらいであろうかという。『カチューシャ』とか『山小屋』などというなもあるが、だいたい『灯(ともしび)』というのが“うたごえの店”の代名詞になっているようである。お客さんの年齢はだいたい二十歳が平均年齢で、オフィス・ガール、若いサラリーマン、学生、工員、中小商店の店員などである。西武新宿駅前の店で聞いたところによると、女は二十一歳になるとパッタリ来なくなり、むしろ男のほうがいくつになってもだらだらとやってくる傾向があるようだというのである。

(昭和39年9月25日号掲載)

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