
そんな開高さんが、週刊誌のルポ連載を、数日間の熟考の末、意外にあっさり引き受けたのは、自分の文学の新たな方向を模索していた時期だったからなのかも知れない。作家だから締め切りに追われるのは宿命だとしても、一週間にひとつの割合で取材をすませ、一本の作品にまとめる、それを毎週続けるという仕事は、開高さんとしても初体験だった。
(永山義高氏)
「ずばり東京」前の活躍
作品的にいうと、当時すでに「日本三文オペラ」(昭和三十四年)、「ロビンソンの末裔」(三十五年)、「過去と未来の国々」(三十六年)、「片隅の迷路」「声の狩人」(いずれも三十七年)、などを発表。芥川賞の受賞後も、順調な創作活動を展開していた。
社会派としての活動も活発で、昭和三十五年にかけての安保闘争では、文化人のデモの先頭に立った。昭和三十五年の五月から七月にかけて日本文学代表団の一員として中国を訪問、さらに九月からは東欧諸国を訪ねている。翌三十六年はイエルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴したあと、九月には大江健三郎氏とソヴィエト作家同盟からの招待を受けて訪ソ。東西ドイツ、フランスを経て三十七年一月に帰国するなど海外経験も重ね、「行動する新進作家」としての評価も高まりつつあった。
『日本人の遊び場』(集英社文庫) 解説・永山義高
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| 『二重壁』自筆原稿(「別冊文藝春秋」1958.2初出、『屋根裏の独白』に収録) | |
「男と女」記事(開高健、牧羊子夫妻=週刊読売1959.1.8号インタビュー) |
左:『屋根裏の独白』(1959-08、中央公論社)右:『ロビンソンの末裔』書籍カバー(1960-12、中央公論社) |
「日本人の遊び」と「ずばり東京」
作家だから締め切りに追われるのは宿命だとしても、一週間にひとつの割合で取材をすませ、一本の作品にまとめる、それを毎週続けるという仕事は、開高さんとしても初体験だった。
「オレは長良川の鵜と同じや。毎週毎週、泳ぎまわらされ、魚をくわえたと思うたらキミらに横取りされる……」
と嘆きつつも、「輪転機に追いまくられる」仕事に意欲を燃やし続けたのだった。
永山義高(同上)
『日本人の遊び場』((1963-10、朝日新聞社) |
左:「ずばり東京」第54回=ある都庁職員の一日(1964-10-16号)右:「ずばり東京」最終回=サヨナラ・トウキョウ(1964-11-06号) |
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左:『ずばり東京―昭和著聞集(上)』(1964-05、朝日新聞社) 右:『ずばり東京―昭和著聞集(下)』(1964-12、朝日新聞社) |
開高健ルポ文学の開花
この「ずばり東京」が終わってから三週間後に、開高さんは週刊朝日の臨時海外特派員として、秋元啓一カメラマン(故人)とともにあわただしくベトナムへと飛び立つ。ベトコンに包囲されたジャングルの最前線で九死に一生を得るなど、命を賭けてのこのルポは、ベトナム戦争の実相を伝える報道として、当時の世論形成に大きな影響を与えた。
ベトナム戦争の取材体験は「輝ける闇」として純文学作品に昇華する一方、「フィッシュ・オン」と「オーパ!」シリーズのフィッシング・ノンフィクションへと展開する。釣りという行為を通しての、ワールド・ワイドな文明批評ルポの開拓だった。
永山義高(同上)
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左:『輝ける闇』(1968-04、新潮社) 右:『夏の闇』(1972-03、新潮社) |

















