開高健記念会

茅ヶ崎市 開高健記念館「開高健 自筆原稿」

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企画展:開高健 自筆原稿

闇シリーズ三部作

発表当時は出版されなかった『渚から来るもの』が後に改作されて『輝ける闇』となり、『夏の闇』『花終る闇』の三部作が生まれる。最終作を完成せぬまま没した作家の、その創作の過程を映し出す自筆原稿や手紙。

『渚から来るもの』『耳の物語』と『夏の闇』『花終る闇』

『輝ける闇』『夏の闇』、および『花終る闇』(未完)の闇シリーズ三部作は、開高健が、パリ市の標語「漂えど沈まず」を総タイトルとして構想していた作品群だった。週刊誌「朝日ジャーナル」に連載された『渚から来るもの』はヴェトナムでの体験を軸とした小説だが、作者自身が語るふたつの理由で当時出版にはいたらなかった(その後1980年に角川書店より刊行)。この作品は後日改作され『輝ける闇』となって発表された。それから三年後『夏の闇』は雑誌「新潮」に400枚一挙掲載され、雑誌は完売寸前まで売れ、多くの読者の手にとられた。この作品には文部大臣賞をという話もあったが開高健は辞退している。海外の反応も大きく、イギリス、ドイツ、フィンランドその他いろいろな国で翻訳された。最後の『花終る闇』は未完であったが死後やはり「新潮」の開高健追悼特集号に、夫人牧羊子の許可を受けて250枚が一挙掲載された。『耳の物語』は記憶の中の音によってつづった自伝的小説。開高文学の原点ともいえる心象風景が読み取れる。

『渚から来るもの』初出:「朝日ジャーナル」1966(昭和41)年1月~10月/36歳
『夏の闇』初出:「新潮」1971(昭和46)年10月/41歳
『耳の物語』初出:「新潮」1983(昭和58)年1月/53歳、1985(昭和60)年11月
『花終わる闇』初出:「新潮」1990(平成2)年2月

闇シリーズ三部作の総題「漂えども沈まず」と、『花終わる闇』のタイトルを記した自筆原稿。開高健記念会所蔵

『夏の闇』自筆原稿。開高健記念会所蔵

『渚から来るもの』自筆原稿。開高健記念会所蔵

『花終わる闇』自筆原稿。開高健記念会所蔵

銀山平にて『夏の闇』の構想を練る/家族へ宛てた手紙

1970(昭和45)年、この年開高健は、秋元啓一カメラマンを伴ない「週刊朝日」の連載、『フィッシュ・オン』最終章の取材・執筆のため一度訪れたのち、六月に再度一人で銀山湖畔・村杉小屋を訪問している。『夏の闇』の構想を練るためであった。

電気も、電話もない村杉小屋のこと、開高健は以前、小型の自家発電機を持ち込んだがすぐに燃料切れになるので、今回夜はランプを灯して原稿用紙に向かった。しかし、小屋の主人によると「執筆もままならぬ様子で二階でゴロゴロしていた」という印象だったらしいが、本人との間には「ゴロゴロではないんだ、悶々としているのだよ」という問答があったとか。

滞在は三ヵ月の長逗留となったため、その間家族へ長文の手紙をしたためている。山での生活ぶりからはじまり、健康なこと、まだ釣りはしていないこと、郵便物の転送依頼、そしてふりかけ、ごましお、ニンニクの瓶詰め五個、アジの干物たくさん、股引など衣類、食料の送付願いなどが書かれている。また、高級な道具をもってやってくる釣り人のマナーの悪さをののしり、感情をだしためずらしい文章が一ヵ所ある。

小屋では規則正しい食事、たまのお風呂、一週間に一度は川や湖で竿を振って、あとはゴロゴロ悶々の三ヵ月間を過したが小説の構想はまとまらず下山することとなった。

家族へ宛てた手紙と、原稿書きに用いたランプ。開高健記念会所蔵

司馬遼太郎弔辞

1989年12月9日、食道腫瘍に肺炎を併発し開高健死去。享年58歳。

翌1990年1月12日13時より東京の青山葬儀場にて葬儀・告別式が行われた。この原稿は、弔辞を述べた司馬遼太郎、佐治敬三、谷沢永一らのうちの司馬遼太郎のもの。赤、青、黄、緑など十色余の色鉛筆を使って推敲に推敲を重ねた跡がうかがえる。

この弔辞のなかで司馬遼太郎は、自分は開高健の「ゆるがない読者」であり、『日本三文オペラ』のころからその「文体の掘削力」に驚異したことに触れ、『夏の闇』は「名作という以上にあたらしい日本語世界であり、おそらく開高健はこの一作を頂点として大河になり、後世を流れつづけるでありましょう」と述べている。そして、送られてきた『珠玉』の読書の最中に訃報に接したこと、その読後の余韻のなかでこれを書いたと結んでいる。

司馬遼太郎弔辞原稿。神奈川近代文学館所蔵

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