開高健記念会

茅ヶ崎市 開高健記念館開高健とパリ展

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企画展:開高健とパリ

開高健とサルトル

一冊の本との出合いが一人の青年の文学的才能を目覚めさせ、すぐれた作家を誕生させることが時に起る。開高健のジャン=ポール・サルトルとの出合いもそうだった。白井浩司が訳して、戦後すぐに青磁社から出た『嘔吐』である。赤い表紙の粗末な仙花紙で組まれたこの本を、それからの彼は二年おき位に読み返していた。

(『開高健のサルトル体験』開高健記念会会長 坂本忠雄)

開高健の語るサルトル

『嘔吐』

『嘔吐』は離せない本の一つである。ここ一年ほどは読みかえしていないが、それまでは毎年一回か二回読みかえしていた。

 はじめてこの訳本に出会ったのは戦後間もないころで、青磁社という出版社からだされたのだったと思う。赤い表紙になっていた。

 まだ私は中学生で、大脳の皮にニコチンやアルコールの汚点がついていず、毎日毎日さまざまな本のさまざまな言葉に右往左往し、泥酔していた。『嘔吐』をはじめて読んだとき、活字が白いページから一個ずつ勃起してくるのを目に見るような気がした。すぐれた作品ならなにを読んでもそういう印象が起きるものだ。

初出誌:昭和39年1月12日「世界の文学」49巻・12(中央公論社)
『開高健の文学論』「嘔吐の周辺」(中公文庫)収録

バスチーユ広場からモンパルナス

大乱闘の夜の人ごみのなかで大江君がサルトルとボーヴォワールの姿を発見し、田中良君がその場で強引に明日の会見の約束をとりつけた。翌日の正午すぎ、モンパルナスのクーポールで会うと、サルトルがやぶにらみの目で笑いながら説明した。

「……昨日の晩、シモーヌ・ド・ボーヴォワールがクツを片一方なくしましてね、はだしで家へ帰って来ました」

 フランス知識人の誠実な積極性は彼らに代表されている。

初出誌:昭和37年1月13日『毎日新聞』夕刊
『言葉の落葉』Ⅱ(冨山房)収録

一九六一年十二月二十日 サルトル対談

 何年となく『嘔吐』を私はくりかえし読んできたのだから、作者の顔をみたいという気持は宝塚劇場へかけつける少女のそれに似ているといってもよいものだった。モスクワからパリへでてきて、ある十二月のつめたい正午にモンパルナス大通りの「クーポール」で、すごいヤブニラミの、呆れるほど背のひくい、地中海青の瞳を優しさと無邪気さで輝かせた、初老の小男に会った。彼は小男によくある精力を発揮してほとんど一秒のすきもなしにしゃべりにしゃべり、おびただしいたばこの吸いがらと、灰と、濃いブラック・コーヒーの澱みをのこして、よちよちと去っていった。たいへん愛想がよくて、いつもニコニコと上機嫌に笑っていた。驚きと満足と恐れにみたされて日本の小説家は、子供が外套をひきずって歩くみたいなそのうしろ姿をいつまでも見送った。

初出誌:昭和39年1月12日「世界の文学」49巻・付録12(中央公論社)
『言葉の落葉』Ⅲ(冨山房)収録

「世界」1962年5月号 連載:聲の狩人(二) サルトルとの40分 「世界」1962年4月号 連載:聲の狩人  パリで 『声の狩人』2008年1月20日(光文社文庫)

『嘔吐』翻訳者:白井浩司氏と

 白井浩司氏はいつ会っても酔っていて、しらふでいる氏の顔を私は想像できないのだけれど、執拗に誠実に脱皮をつづけていらっしゃる。青磁社の本のときからいったい何種類ぐらいの版になったのだろうかと思うが、氏は『嘔吐』が出版社を変え、紙を変え、版を変えるたびに、そのたびごとに訂正、改訳をする。そのたびごとに私は本屋へでかけて買ってくる。けれど一冊ずつ読みあわせてどこがどう変ったのかと調べることはしないのである。青磁社の本は友達が持っていったきりなので、その後私が手帖みたいにしてページを繰りつづけているのは一九五一年にでた人文書院の版である。そのあとがきで白井氏は初訳をしたのが十年前で、誤訳、悪訳があったということを反省していらっしゃるが、私としてみると、それがあまり気にならないのである。なにをしても許してあげたいというファン心理の寛容な偏執があるからだ。

初出誌:昭和39年1月12日「世界の文学」49巻・付録12(中央公論社)
『言葉の落葉』Ⅲ(冨山房)収録

『嘔吐』との出合い

開高
白井さんは、いつかお聞きしたところでは、昭和十三年に丸善で、本としての『嘔吐』を発見なさったそうですが、ここにあるサルトルの年譜を見ますと、昭和十三年というのは、三月にフランスで『嘔吐』が出ているんですね。それが丸善に入った?
白井
ええ。丸善が見込み注文で三冊ほど仕入れたんですね。
開高
それから以後、かれこれ四十年余になりますか、サルトルと同棲してきたのは……
白井
フランスの文芸雑誌で「NRF」というのがあったんですね。今もあるけど、今はあまり元気がなくなっている。その「NRF」の定期購読を生意気にもしてたんです。その雑誌に、いま日本では『水いらず』とか、『壁』とかと訳されている短編が載っていて、読んだところでは、従来の小説とはまったく違うものがあると思ったわけです。そこに、破壊的な小説『嘔吐』が出るという予告があり、その『嘔吐』が、あなたが言われたように、昭和十三年の六月か、七月に丸善に入ったんです。慶應の先生の佐藤朔さんが「丸善に入っているよ」と言われたので、早速行って買ったわけです。

開高
白井さんは、そのとき御歳いくつですか。
白井
二十です。フランスの小説はいろいろ読んでいたけれども、『嘔吐』にぶつかって、本当にショックを受けた。

初出誌:昭和55年七月号『新潮』(新潮社)
『言葉を、もっと言葉を!…』(冨山房)

写真提供:新潮社

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