開高健記念会

茅ヶ崎市 開高健記念館開高健とパリ展

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企画展:開高健とパリ

タケシのパリ

ノートル・ダムの正面の広場のまんなかに小さな真ちゅうの円板が石にハメこまれてある。…いいつたえがあって、その円板を踏んだ人は、ふたたびパリへもどってくるという。円板は数知れぬ男女の靴さきにつかれて、へこみ、すりへっている。私はスーツケースをさげて空港行きのバスが待っているアンバリッドへ行く途中、セーヌ川をわたり、そこへいって円板を一つ踏みつけた。地下の納骨堂の上だろう。〝 では、また。タケシ 〟

『タケシのパリ』

セーヌが育てた街

タケシのパリ

 パンテオンの正面のゆるい坂はスーフロ大通りである。それをおりてゆくとサン・ミッシェル大通りに出会う。このあたり学生街の動脈である。リュクサンブールの公園もある。永井荷風が若いころさまよい歩いていたのもこのあたりである。パンテオンからちょっとさがってすぐ右へ折れたところに、スーフロ屋という小さな旅館があった。あとで人に教えられて、そこに荷風が泊まっていたと知った。私もある年の夏に泊まったことがある。暗い、小さな旅館で、おかみさんはやせていて、口数が少なく、悲しげな顔をしていた。

 そのすぐ向かいにマチュラン屋という小さな旅館がある。別の年の夏、またそのつぎの年の冬、そこに泊まった。私はカルチェ・ラタンの空気が好きなので、いつもそのあたりの小さな学生下宿に泊まることにしていた。おかみさんは何も知らないけれど、この旅館のどこかの部屋に昔、リルケが下宿していた。そして、おそらく『マルテの手記』と思われる原稿を書いていた。夜遊びでくたびれたコクトーが青白い未明のなかをもどってくると、パンテオンをおりてすぐ右のある部屋の窓が、夜が明けたのにまだ灯を消さないで輝いている。それを見てコクトーは考えるのだった。「ああ、またリルケが痛がっている」

 ノートル・ダムの正面の広場のまんなかに小さな真ちゅうの円板が石にハメこまれてある。それが全フランスの里程票の基点である。フランス人は同時にそれが世界文化の出発点だとも感じている。いいつたえがあって、その円板を踏んだ人は、ふたたびパリへもどってくるという。円板は数知れぬ男女の靴さきにつかれて、へこみ、すりへっている。私はスーツケースをさげて空港行きのバスが待っているアンバリッドへ行く途中、セーヌ川をわたり、そこへいって円板を一つ踏みつけた。地下の納骨堂の上だろう。〝 では、また。タケシ 〟

 ひめやかなささやきを靴さきに聞くような気がした。

そして、その瞬間にも、橋の下をたくさんの水が流れ、去った。

初出誌:昭和42年1月1日『毎日グラフ』(毎日新聞社)
『言葉の落葉』Ⅲ(冨山房)収録

ダンヒル

 パリに着いてから“スイス村”という高級古物専門のブティックがずらりと並んだ一画を訪れる。ぶらぶら覗いて歩くうちに一軒の窓のすみっこに手垢にまみれた古ダンヒルが一箇ころがっていた。

「つまらないよ、あんなの」

 私がいうと、大兄はうなずいて

「ウン、そうだな」

 という。

「よしましょう、あんなの」

「そうだね」

「オレ、あれなら持ってるよ」

「そうかい」

 そういってブラブラ歩きだすと、つられて大兄も歩きだす。そこでスキを狙って横町に入りこみ、ぐるりと一周し、大兄が遠くの店のウィンドウを覗きこんでいるのを見とどけておいてから、もとの店にとってかえし、すばやく店内にすべりこんでそれを買いとった。シメた。これで一点返したぞ。

 そこへ大兄が一歩違いで入ってきた。

「何だ、おまえ、買ったのか?」

「いや。つまらん物ですよ」

「そうだな」

「とてもあなたのには。とても、とても」

「……」

 大兄の眼にすばやく二種ほどの光がいったりきたりするのが見られた。そのうちの一種の光にはちょっと私を幸福にしてくれるものがあった。それを見とどけてから、さりげなくウナだれて、足早くその店からでた。

 火のでるような競争である。

初出誌:昭和53年6月「火をつける」『完本 白いページ』(潮出版)
『白いページ』(光文社文庫)

* 1985年、安岡章太郎とヨーロッパ講演旅行中のダンヒル本店でのエピソード

シャンソン


安岡章太郎と銀座マーヴィーでシャンソン合戦に興じる(昭和54年6月14日)/写真提供:新潮社

 文壇でシャンソンを歌わせると、私の知っているところでは安岡章太郎さんがナンバー・ワンでしょう。一九三〇年代の古典から五〇年代、六〇年代の新曲までなかなかよく精進しています。ハイボールを二杯か三杯飲むといささか調子のはずれた、サビのきいた金切声とでも呼ぶべき奇怪な声を張りあげて、吠えるでなし、呻くでなしといった様子で鳴きはじめます。

 歌というものは連鎖反応ですから、彼がよこで鳴きはじめると私もついついノドにオシメリをくれてから鳴きにかからずにいられなくなるのです。いつか軽井沢で古畳に寝ころんで肘枕のまま二人で鳴きあわせてみたことがあります。ありったけのレパートリーを総動員してみたのです。「パリ祭」。「パリの屋根の下」。「掻ッ払いの一夜」。「自由を我等に」。「暗い日曜日」。「メッキーの哀訴」。「水夫の唄」。「リラの花咲く頃」。お古いなじみの名画主題歌からはじまって、「セ・シ・ボン」。「ゴリラ」。「パリのいたずらッ子」。「さいごの踊りを私に」。「兵隊が戦争に行くとき」などなど、戦後の新作名曲にまで及びました。

「うたかたのシャンソン」『言葉の落葉』Ⅳ(冨山房)収録

ユトリロ


ユトリロ:ポン・ヌフ

 ユトリロの画にはかたくなな拒否の表情がある。しかし、それにもかかわらずどこかあどけないといっていいほどの透明なオプティミズムがあるのだ。たしかにそれはある。読みとれる。彼は素人画家で、クレーのような形而上学の操作もないし、ルオーのような信仰もあると思えない。ピカソの振動もないし、おなじマイナー・ポーエットのスーチンののめりこむような激情もない。多くの人はロマンチックな芸術家崇拝の私小説根性、楽屋裏趣味からして古きよき時代の街のアル中患者行状記と抱きあわせにして彼の作品を語ろうとする。画家ユトリロはボヘミアンと組んで二人一揃いにならなければ鑑賞の対象となり得ないかのようである。

初出誌:昭和36年2月25日「現代美術」15『ユトリロ』(みすず書房)
『言葉の落葉』Ⅱ(冨山房)収録

ジャン・ギャバン

 ジャン・ギャバンの出た映画は、なけなしの金をはたいてずいぶん見つづけてきたんだが、センチメンタル・ギャングの映画にしても、『フレンチ・カンカン』のような軽いもんでも、銭が惜しいと思うたことは一度もないんです。

 三〇年代のギャバン映画は、どれをとっても傑作、名作です。『大いなる幻影』、『望郷』、『地の果てを行く』、『獣人』、『どん底』……ことごとく光ってる。

 まあ、彼の存在そのものが一大芸術でしたねえ。段つき鼻、重たあいまぶた、でくでくのほっぺた、薄いくちびる。あの顔が画面にぬうっと出てきて、タバコを吸うたりするともうあかん。むらむらっとして、あのいがらっぽいゴロワーズが吸いたくなってくる。

 彼の演技は徹底的に一度計算し抜いたあげくに、その計算すべてを捨ててしまうようなもんやないか。あの自然さが日本人に完全にアピールするんでしょうよ。

 ギャバンの芸の本質をついたのは、やっぱりジュリアン・デュヴィヴィエで、彼はフランスの雑誌の質問に答えて、ルイ・ジューヴェは偉大な芸術だが、ギャバンは偉大な自然だと言ってる。こういうのを批評というんやないか。ギャバンの本質はこの一言につきている。

初出誌:昭和51年12月24日『朝日ジャーナル』18巻53号「特集〈追悼’76〉時代に生き、時代に死す」(朝日新聞社)
『言葉の落葉』Ⅳ収録(冨山房)

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