開高健記念会

NEWS

開高健記念会ニュース

開高健記念会の活動の現況を中心に、開高さん関連のさまざまな情報もお知らせしていきます。最新のお知らせは新しいニュースページをご覧ください。このページには、2007年5月までのニュースを掲載しています。

今までにお話をされた方々とそのテーマは、紅茶会の記録ページをご覧下さい。

第55回紅茶会 講師は藤森益弘氏

サン・アド時代には部下として、また小説家の後輩として、開高健と長年のおつきあいがあった広告制作会社サン・アド専務取締役・藤森さんが、第55回の講師。茅ヶ崎の開高健記念館で行われました。

[写真]藤森益弘氏
お話される藤森益弘さん

1989年12月の開高さんの密葬のときから、つい先日まで、想いはありながら故あってここ茅ヶ崎の開高邸に来られず、こうして皆さんの前で開高健の思い出を話す機会がこようとは思わなかった。開高健さんの死から10年以上たって出版した半自伝的小説『春の砦』に、何箇所かで小説家への想いを書いた。

サン・アド入社のとき、開高さんたちの面接を受け、卒業前の学生だったにもかかわらず「明日からおいで」と言われて「なんちゅう会社や」と思ったこと。そのときの車代として破格の4万円をもらい、ふたたび「なんちゅう会社や」と思ったことを、よく覚えている。

初めて読んだ開高作品は『日本三文オペラ』だったが、小説家としては大江健三郎さんの方にはるかに関心があり、そのことを開高さんにも隠さなかった。

しかし、『夏の闇』を読んで、完全に打ちのめされた。これは20世紀日本文学のベスト3に入るといまでも思う。『ベトナム戦記』発表当時、自分の尊敬していた吉本隆明の開高批判には、うなずける部分もあったが、このときの開高さんの「現場主義」は、あとから考えると、「思想」に対する「文学」の側からの反論だったのではないかと思う。

また、これも自分が小説を書くようになってから感じるのだが、闇3部作の最後を小説家が書き上げられず苦しんでいた理由も、この「現場主義」にあったのかも知れないと思う。

ウイスキーのマッカランにはとらやの「夜の梅」がよく合うということ、英国のフィッシュ&チップスがなぜエロ新聞紙に包まれるといつまでも熱いかなど、文学論から映画論、ジョーク、酒の話、猥談まで、いろいろなことを教わった。

最後に、制作にたずさわったサントリーのCMの映像を見ながら、開高さんとのそのときの思い出を語った。

第54回紅茶会 講師は写真家高橋曻氏

第54回紅茶会は、企画展「開高健、モンゴルを駆けた夢」にちなんで、写真家高橋曻氏を講師に4月29日(日)開高健記念館で開催された。

[写真]高橋曻氏
マイクを手に話される高橋曻さん

開高さんは、1986年と1987年にそれぞれ1ヶ月近くモンゴルを旅した。幻の魚イトウを釣るのが目的だった。最初の年は、慎重な開高さんは事前調査をするのが常なのだが、このときは何故かすぐ行くと言って出かけたが、シーズンが少し遅れていた。1ヶ月間毎日釣り続けたが釣れない。トボトボと肩を落として釣竿をもち草原を歩いていた開高さんの後姿が眼に浮かんでくる。

明日が釣りの最後だという前日の夕方、モンゴルの神様、テングリ様が「可哀想だな」と思ったのか、90センチぐらいのイトウが釣れた。このときは、テレビのスペシャル番組の撮影が目的の一つだったので面目は保つことが出来たわけだが、開高さんは「これで放映してもらっては困る」と言い出した。90センチに満足をしていないのだ。「来年にもう一度、来てもよいというならオン・エアしてよい」ということになり、同行のプロデューサーは会社の了解も得ずにOKを出した。翌年は、シーズンにあわせてモンゴル入りしたので120センチクラスが釣れ過ぎるくらいに釣れた。年越しの恨みを晴らすことが出来た。書斎に飾られている剥製はそのときのものだ。

開高さんがモンゴルを訪れたときにガイドと通訳を務められたのが、元亜細亜大学学長の、鯉渕信一先生。2年目のモンゴル行きのある日、開高さんはモンゴルの草原を「草の海」と言われていたが、どこまでも続く草の海を見ながら今気づいたかのように「チンギスハーンの墓はどこにあるねん」と鯉渕さんに尋ねた。1年目はもちろん、2年目もそれまで全然話にも出てこなかったので、その質問が出てきたときには驚いた。その質問を口にして以来、開高さんの関心はイトウ釣りからチンギスハーンの墓探しにワープした。展示室に展示されている膨大なモンゴル関連の文献、資料を読み漁っていた開高さんは、その時に気づいたかのように質問を口にしたが、実はかなり前からこれを聞いてやろうとタイミングを計っていたように思う。

大物釣りへの挑戦に見られるように、開高さんは「デカイ面白さ」を追い求め続けた。「20世紀の今、世界に残された謎の一つがチンギスハーンの陵墓や」。デカイ夢を見つけた瞬間だった。開高さんは、最後になった「大きな夢」に胸膨らませた。開高さんは、どこへ出かけても釣れるまでは決して諦めることのない人だったから、「21世紀に受け継がれた謎」の解明についても、決して諦めることはしていない。だから、開高さんは、今もモンゴルに生きている。と、私は思っている。

第52回紅茶会原稿「食と想像力」 講師:川又良一氏

第52回紅茶会は、講師に元文藝春秋の編集者の川又良一氏を迎えて、2月25日に、開高健記念館で開催された。『最後の晩餐』は、「諸君」昭和52年1月号から54年1月号で連載されたが、川又さんはそのときの編集長である。 第1話の「どん底での食欲」のなかで、「貪婪、執拗とめどがなく、しかも、いつもニコニコと微笑して登場する……不屈の図々しさでわが家にあらわれ、私をそそのかして酒の力で無理矢理におしゃべりをさせたあげく、よっしゃ、買うた、ソコです。いきましょうとおっしゃる」と、紹介されている。

[写真]川又良一氏
本を手に話される川又良一さん

開高さんには、“食”をテーマにした2つの作品『新しい天体』(潮出版)と『最後の晩餐』(文藝春秋)がある。『新しい天体』ば、ブリア・サヴァラン『美味礼賛』のなかの「新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」から書名がとられている。

『最後の晩餐』では、「食談を軽蔑する知的偽善者に一矢報いるために碩学サミュエル・ジョンソン博士の『腹のことを考えない人は頭のことも考えない』という絶好の一行を毎号、タイトルの横に掲げる」と書いている。「わが国の文学界では食談は一貫して私生児扱いをうけてきたわけだが、今後その偽善癖を、この誌面を借りて、いささか是正したいという微意がわたしにある」。開高さんにとって“食”を書くということの一つは、開高健の作家としての野心であり、開高健の決意だった。それと、開高健は父親を病気で失い中学2年のときからアルバイトをして家族の面倒をみざるを得ず、弁当代わりに水道水で腹を膨らませた、いわゆるトトチャブについて何度も書いているように育った時期、戦時下での飢餓感が背景にあった。

開高さんは「“食”は想像力がなければ食ではない。イマジネーションの問題だ」と、よく言われていた。大阪・たこ梅のサエズリ、岡山・初平の白桃などの描写を読んで、じつにうまいなあと感心させられた。

『新しい天体』で、開高さんは食の文体を確立させた。和田金の松坂牛の描写は、形容詞をこれでもかこれでもかと積み重ねていく。これは大阪人でもある開高さんでなければ書き得ない文体である。そこで、編集者として食談を何とか書いていただこうと、この茅ヶ崎の家に通い続けたが、なかなかOKとはいかなかった。

あるとき、銀座のバーに田川重役と3人で連れ立って出かけた。「凱旋門」で一躍有名になったカルヴァドスというリンゴから作られた酒があるが、本来は安酒の見本のような酒だが、70年ものがあるというので注文した。グラスに注ぐと部屋中リンゴの香りで一杯になった。開高さんは、この70年もののカルヴァドスを飲んで「よっしゃ!」ということになったのが『最後の晩餐』である。そして『最後の晩餐』では、カニバリズム、「喫人」についての考察をいれる事を条件にスタートしたのであった。この「喫人」という言葉は、恐らく開高さんの造語ではないかと思う。

川又良一さんからは、『最後の晩餐』スタート時の貴重なお話が伺えた。

■ 「開高健とヌーヴォーの会」、 第51回紅茶会を角田光代さんを講師に開催

開高健とヌーヴォーの会

[写真]伊藤乾氏
開高健ノンフィクション賞を受賞した伊藤乾さん

「開高健とヌーヴォーの会」は、12月8日(金)、レストラン アラスカ(千代田区内幸町日本プレスセンタービル10F)で開催、会員、友の会会員ら100人を越す人たちが参加して盛会だった。会場には、開高さんの写真と、今年も旅館「こばせ」の長谷政志さんから送られてきた越前海岸の水仙が飾られ、参加者はボージョレヌーヴォーのグラスを片手に、大いに話が弾んでいた。この日「開高忌であるヌーヴォーの会で、私の演奏を開高さんゆかりの人たちに、是非聞いて欲しい」と、モンゴルの馬頭琴奏者センジャーさんから申し出があり、馬頭琴の演奏が行われた。モンゴルの草原を吹く爽やかな風を連想させるような澄んだ音色が会場を流れていた。

なお、第4回集英社・開高健ノンフィクション賞を、作品『さよなら、サイレンとネイビー 地下鉄に乗った同級生』で受賞した伊藤乾氏が出席し、恒例により、開高健サイン入りモンブラン万年筆が坂本忠雄会長から贈呈された。

紅茶会「異国で読む開高健」

ヌーヴォーの会に先だって、直木賞作家の角田光代さんを講師に第51回紅茶会が午後4時から開催された。角田光代さんは、今年度の川端康成文学賞を受賞するなど、いま最も輝いている作家の一人であり、また開高健ファンを自認されていることから関心を集め、80人を越す人たちが熱心に講演を聞き入っていた。

[写真]角田光代氏
紅茶会でお話しする角田光代さん

私は23歳で小説家になり、28歳のときにアジアの国々を、一人旅をした。2月にベトナムへ出発するときに友人から『輝ける闇』を手渡された。それまでに開高作品は読んだことがなく興味はまったく無く、友人には読んだ振りをすればよいと考えていた。到着したハノイで風邪を引き、雨で出歩けないので『輝ける闇』を読み始めた。読み始めてすぐに引き込まれてしまった。フエは古都と呼ばれているが、ベトナム戦争の激戦地でもあった。手が無い、足が無い、顔がただれている、枯葉剤の後遺症の人たち、そんな光景と小説とがないまぜになって、時間の感覚が無くなった。真夜中、シクロに乗って真っ暗ななかを駅に向かった。街灯に浮かび上がるのは、戦争で廃墟と化した街。開高健が「夜はものすごく深い」と書いているが、錯覚に陥った。小説世界と今の時間の空間が完全に溶け合った不思議な感覚にとらわれた。私は、作家開高健に完全に捕まってしまった。

旅を続けて、旅とともにベトナムの感覚が身についたときに、再び『輝ける闇』を読んだ。開高は、「匂い」を書きたいと言っている。ホーチミンの路地裏、ものすごい数のバイクが走り抜ける通り、彼が見たそのときの街の匂いを、20年、30年経っても変わらない、消えない、匂いを言葉だけで表現をする、その難しさ。言葉のなかにそれが押し込められている、すごい小説家だと思った。開高健が書いた匂いのベトナム、今は平和のベトナムをバックパッカーたちが歩いている。生とギリギリのところにいた人と、平和ボケの人たち。いまは生の感覚が感じられない。「正真正面、体を立てて生きたい」。私は外国を小説の舞台にすることを避けてきたが、外国を旅して、私が見たこと、思ったことを書かなければいけないと思った。「知らない」ということから、小説は生まれる。ベトナム戦争を体で知ろうとする、それが無理なら「わからない」といい続ける。「知っている」と安易に思ってはいけない。『輝ける闇』を読まなかったならば、そのようにはならなかったと、私は思っている。

『夏の闇』は、ギリギリのところまで行ってしまった作家の停滞感が伝わってくる。空疎な感覚がひしひしと伝わってくる。その「空疎」を書ききった、書き終えた、すごいことだと思った。

■ 第50回紅茶会は作花済夫氏

第50回紅茶会は平成18年11月26日(日)午後2時より、京都大学名誉教授で開高健と旧制天王子中学(大阪府立)で同級生だった作花済夫さっか すみお氏を招いて行われました。演題は「横方回転の王様:体操部同級生の開高健」。作花氏は、自分の知っている開高健は、主に、芥川賞を貰うまでの彼だ、とことわりながら、少年から思春期時代の開高健の人となりや出来事を、地図や写真を交えながら語りました。

[写真]作花済夫氏
作花済夫さん

開高健の生まれ育ったころの南大阪、田辺周辺は、綺麗な小川が流れ、田畑の広がる地帯だった。小学校5年のとき太平洋戦争が始まった。中学の入学試験に通ってみたら自分は1年2組で、級長は開高健だった。当時の振り分け方から考えると、開高は新入生で2番目の成績だったのではないか。

そのころの開高は自分と同じように小柄で、一緒に体操部に入った。開高は「横方回転の王様」ではあったが(後年、この技を披露している小説家の写真が記念館にも展示してある)、自分の記憶では、それ以外はあまり得意ではなかった。体操は個人技なのでグループに入るのがいやだった開高が自ら選んだのだろう。文学志向はすでにあり、家にたくさん本のある友人のところに入り浸って濫読を続けていた。入学後まもなく父が亡くなったり(腸チフス)、身近な級友が焼夷弾で死んだりしたことは、開高に大きな影響を与えただろう。学徒動員や終戦の詔勅を開高と共有した。

その後、壽屋に入ってから偶然地下鉄内で出会った際、「作花、もう5年待ってくれ」と言われた。その2年後に芥川賞受賞。「芥川賞」というコトバを口に出さないのが、豪放磊落に見える開高の繊細でシャイな面を表していると思う。

娘の道子が幼稚園でひとり遊びをしているのを見て「自分と似て社会性がないんじゃないんだろうか」と気を揉んでいた、という話も、小説家の父としての面を伝えて印象的でした。

■ 第49回紅茶会は南川三治郎氏

第49回紅茶会が10月29日(日)、写真家の南川三治郎さんを講師に開催された。タイトルは「気はずかしがりやの開高健さん」。

[写真]南川三治郎氏
南川三治郎さん

雑誌「バッカス」の企画で「作家の工房」のために開高さんに書斎での取材を申し込んだけれども色好い返事は貰えなかった。そこで編集部が取材する南川は、大宅壮一マスコミ塾一期生で(開高さんは大宅賞の選考委員だっだ)以前、「推理作家の発想工房」でジャック・ヒギンズやル・カレ、グレアム・グリーンを撮った写真家だ、と売り込んだ。

「なに、グレアム・グリーンを撮ったぁ」と開高さんが叫んで取材の許可が出た。まさに一期一会の出会いになった。

当日、4×5のものものしいカメラを持ち込むと不機嫌になった。ハンチングを目深にかぶって顔が撮れない。お酒がたりないのではと用意のシャトウ ラグランジェを「はい、お神酒」と差出しグレアム・グリーンの話を1時間。

100回取材お願いの手紙に、100回の断りのレターがきた。パリのTVにグリーンが出ていた、ニースの近くのアンチーブに居るらしいという情報が入って、直ぐアンチーブに飛んで、まっすぐ郵便局へ。G.グリーンの住所を訊ねると、これから郵便物を届けに行く、一緒に行くかということで同道。グリーンは海の見える丘の上のアパルトマンに住んでいた。届けたついで回収する郵便に記された電話番号を必死に暗記して、ホテルから電話をいれた。「G.グリーンのメゾンか?」と問うと秘書とおぼしき女性が、「そうだが彼はもういない。来年6月まで帰らない」と言う。彼はエスピオナージ(スパイ)だからヨーロッパの数箇所に家を持っているらしい。

翌年の6月にアンチーブに行き、電話を入れると本人がでた。名前を名乗り、取材を申し込むと何時だと言う、今から、朝の9時前だからだめだ、15時に来いと意外にも許可がでた。実際に会うと気さくな感じで、原稿を書くポーズや本を読むところを演じてくれた。本はベッドに寝転がって読むとわざわざ寝室まで行って寝てくれた。

そんな話に解けて来たのか、原稿を書くところを撮らせてもらったが、ふりではなく書きかけの原稿に書き継いでいったのにはびっくりした。こう云う人は始めてだっだ。 それでも恥ずかしがりやの開高さんはハンチィングをかぶったままだった。

■ 第48回紅茶会は小畑祐三郎氏

第48回紅茶会が9月24日(日)、元角川書店編集者の小畑祐三郎さんを講師に開高健記念館で開催された。タイトルは「一編集者の断片的回想」。

[写真]小畑祐三郎氏
小畑祐三郎さん

角川書店は角川春樹氏が編集局長になって文芸を強化したいとの方針が出され、それまで宣伝部で制作を担当していた小畑さんは文芸部に移り、1970年から開高さんを担当するようになり、書籍の直接担当として10年、文芸出版の関係で間接的ながら10年、約20年のお付き合いをされたとのこと。冒頭に「尊敬し、魅力のある作家の一人でした」と語り、じっくり噛みしめるように当時を思い起こしながら話されていた。

初めてお会いしたときは、鮮烈な印象でした。開高さんは、大阪から料理職人を呼んで編集者を集めた会をよく開いていたが、その時に、ワインテースティングで味が気に入らないとボトルのワインをドボドボと庭に捨てた。それも1本や2本でなくて。もったいないとの気もしたが、その豪勢さがたまらなくよかった。

担当になって最初の出版は、1971年で5篇の短編を収録した『岸辺の祭り』。解説を柴田翔さんにお願いしたが、とてもよい解説を書いていただいた。72年には『片隅の迷路』を、そして解説を瀬戸内晴美さんに。その後、潮出版から出された『白いページ』を3分冊にして文庫本に。単行本は、朝日ジャーナルに1966年に連載され、『輝ける闇』(1968年4月)の原形になった作品『渚から来るもの』を開高さんと出版交渉、相談をし、了解を得て出版した。また、同人誌「えんぴつ」の時代の作品『あかでみあ めらんこりあ』を出版させた。好きな作家、優れた作家の埋もれた作品を発掘し、世に送り出す、じつに編集者冥利につきる仕事をさせてもらった。

ジョージ・オーウェルの文庫本の推薦文を書いていただくために、カンズメ中の開高さんを駿台荘に訪ねたとき、突然「洗面器に小便をしとるのャ」と言われて何のことかわからずに、あとで考えて、『ベトナム戦記』で食事から小便まで一つの洗面器で済ませるベトナム兵士の話を思い出し、ああ、あのときに即応していれば、もっと話が弾んだのにと、素晴らしい推薦文30枚は書いていただいたが、「天使が素通りした」と、当時を懐古しながらのエピソードも披露されていた。

■ 第47回紅茶会は、菊谷匡祐氏が講師

第47回紅茶会は、8月27日(日)午後2時から、『開高健のいる風景』など開高健との30年に及ぶ親交を綴った著作のある菊谷匡祐さん。テーマは開催中の企画展「開高健の釣魚大全」にちなんで「開高健 釣りエッセイの修辞学」でした。

[写真]菊谷匡祐氏
菊谷匡祐さん

早稲田大学新聞部員時代に「新日本文学」に掲載された小説「パニック」を読んで瞠目していらい、「巨人と玩具」「裸の王様」と立て続けに発表する同時代の気鋭の作家と、早大新聞への寄稿や大学での講演依頼を通じて親しくなった経緯を披露。その過程で、カフカの万里の長城を巡る断片を開高健に紹介し、「そのネタ、俺にくれや」と言われて「どうぞ」と答えたものの、できあがった小説(「流亡記」)のあまりの見事さにショックを受け、「以降、自分は開高健の文章の鑑賞者の側に徹する」決心を固めたことを前段として話された。

そうした鑑賞者の観点からみても、開高健は卓越した書き手だった。初期のルポルタージュ「日本人の遊び場」のなかから、1961年の釜ヶ崎暴動の際、片手で子どもの手を引き、片手にふろしきに包んだ投擲用の小石を、暴動の混沌の真っ只中一個十円で売って歩いていた女の描写を朗読するなど、具体的な例をあげて、聞く人の頷きを誘っていた。

釣りエッセイの傑作として「私の釣魚大全」のなかの根釧原野のイトウの描写をあげ、この描写が自分はもっとも好きであり、開高健の釣りの描写としての最高峰だと思うと語る。開高健の釣りエッセイに於ける、躍動感あふれる、あるいは華やかな魚の描写などは、以降の釣りに関する文章を書く人々に、大きすぎる影響を与えたように思う。それは食の世界でも同様だが、それはまた別の話、として締めくくった。

開高健の「描写することへの情熱」や卓越したテクニックとともに、その「飽き易さ」にも言及されていたのが印象的でした。

■ 第46回紅茶会「開高健と山口瞳」、講師は石井昂さん

第46回紅茶会が、7月30日(日)午後2時から開高健記念館で、新潮社の石井昂(常務取締役)さんを講師に開催された。テーマは「開高健と山口瞳」。

石井昂さんは、現在は新潮社だが、当時はJTBの月刊誌「旅」の編集者として、開高健、山口瞳さん、加えて詩人の田村隆一さんといった“たいへんな人たち”の担当だったから、よく一緒に旅をし、旅を通してその人となりをよく知り、また教えられたという。

[写真]石井昂氏
マイクを片手ににこやかに語る石井さん

サントリーの70年社史「やってみなはれ」は、その前半を山口瞳さんが、後半を開高さんが担当をして、しっかりと書き込まれた社史の傑作だと思うが、山口さんはきちんとしていて、開高さんは豪放磊落というように二人は正反対のキャラクターの持ち主、山口さんは東京人(出身は佐賀)で、開高さんは典型的な大阪人。その二人がサントリー宣伝部に同じ時期にいたということは、まさに文壇の奇跡ともいえよう。

開高さんとは、千葉にアジのたたきを食べに出かけたのが初め。『点と線』の連載によって松本清張を推理作家として世に送り出した雑誌「旅」だが、開高さんに釣りを持ちかけたのも「旅」。『私の釣魚大全』は処女の喜び、ドキドキ感が全編に溢れていて素晴らしい。 青森と岩手の県境の駒込川から山形・酒田でスズキ釣りに、いずれも釣れずに下北半島へ。 ここでも釣れずに「お前と行くと全然釣れなくなる」と言われつづけた。のちにボストンで釣りのお供をしたがだめだった。「開高さんと、釣れた旅をしたかった」と。

開高さんとの最初の旅は、松葉ガニを食べたいと、鳥取まで杉並から車で出かけた。風邪気味で熱っぽく調子が悪いと言いながら、腹が減ったと途中のドライブインでカツカレーとラーメンをぺろり。鳥取の「こぜにや」では二人で、オスの松葉ガニ4ハイとメスのセイコガニ20パイを平らげた。横に歩く夢を見たほどだった。「死ぬほどまでに食べなければ味はわからない」と言ったのは、きだ・みのるだが、開高健と田村隆一の対談が最高であれば、開高健ときだ・みのるに檀一雄を加えた鼎談は、私は最高の鼎談だと思う。タイトルは「美食とエロスと放浪と」で、既になく、幻の鼎談だろう。

山口さんは、最初はとっつきが悪いが、その味の広さがわかってくる、のに対して、開高さんはだんだん怖くなってくるタイプの人。性格の異なる二人がサントリーで出会って、 ひとつの文化を創ってきた、不思議な感じがする。その二人の、それぞれの旅に添乗できたことは、私の何よりの喜びである。

開高さんが亡くなられてから初めて記念館を訪れたという石井昂さん。「いろいろなことが一気に思い出されてきて、話をする精神状態にない」と、ときに当時を思い起こしながら、こみ上げてくる感情をおさえながらのお話でした。

この日、紅茶会終了後、記念館テラスで「開高健のビアライゼの旅」にちなんで、生ビールを飲みながらの懇親会が開催された。この日、紅茶会に出席しぜひ話を聞きたいと、遠路、沼津からの参加者も加わり、石井昂さんをまじえて、夏の夕刻を楽しんだ。

■ 「紅茶会」講演集Ⅰ「ごぞんじ」が出来上がりました。

「紅茶会」講演集Ⅰ「ごぞんじ」が出来上がりました。A5判286ページ、2段組。

日曜日の午後、開高さんが愛した紅茶を飲みながら、開高さんが居を構えた茅ヶ崎で、文学や旅や世相を語る「紅茶会」。月に一回、さまざまな形で小説家と親交のあった人々が「それぞれの開高健」を語っています。

講演集Ⅰに掲載されているのは次の通りです。

開高健 ルポと文学の舞台裏永山義高
開高健の魅力栗坪良樹
開高健のいる風景菊谷匡祐
開高健さんのドン・ペリニヨン塩谷 紘
『夏の闇』の書かれ方坂本忠雄
釣り師・開高健さんとわたし常見 忠
ベトナムと開高さん白川浩司
開高健と同甘同苦高橋 昇・菊池治男
アドマン開高健ゆたか・せん
モンゴルでの開高健鯉淵信一
心に通じる道は胃袋を通る谷口博之
開高健観佐藤嘉尚

正会員、友の会会員の方々には、12月9日の「開高健とヌーヴォーの会」会場で、あるいは開高健記念館で無料で進呈します。また、ご希望の方には1,500円で、記念館で頒布させていただきます。300部限定です。

なお、この講演集は、引き続き刊行してゆきます。

■ 開高健メモリアルジッポとサイン入りルアー(作・常見忠)を記念館で販売

開高健記念館グッズに、新たに開高健メモリアルジッポと開高健サイン(英文)入りのルアーが加わりました。

開高健メモリアルジッポ
8,000円
開高さんは、65年2月14日、ベトナムでの従軍取材中に200名の部隊がベトコンに包囲急襲され、僅か17名が生還するとの過酷な体験をしました。開高さんは、サイゴンの路地裏にあった彫り物屋でジッポに1/17と刻み、さらに弾除けの呪文を刻み込んでもらって、以後持ち歩きました。開高健メモリアルジッポは、遺された愛用のジッポをそのままに複製したものです。
開高健サイン〈英文〉入りルアー 作・常見忠
ゴールド、シルバーの2種類 各1,200
開高さんが唯一、釣りの師ともライバルとも認めた常見忠さん作のルアーです。常見さんのルアーは"忠さんのバイト〈BITE〉"と呼ばれ、釣り人たちに愛用されています。バイトと名づけたのは開高さんで、今回20グラムのゴールド、シルバー2種類のバイトに開高さんの英文サインが刻み込まれています。

いずれも、開高健記念館だけでの販売ですが、下記へのお申し込みも受け付けます。

開高健記念館
TEL&FAX:0467-87-0567
メール:kaiko@k9.dion.ne.jp
※開館日は金・土・日曜日と祝祭日だけです。

■ 好評の写真集「開高健Portrait de Kaiko」 都内の書店などでも購入可能に

表紙のタイトルは「Portrait de Kaiko 開高健」 開高健記念会編集の写真集「開高健Portrait de Kaiko」(B5判、上製本240ページ)が好評で、お問い合わせをたくさんいただいています。これまでは、茅ヶ崎市の開高健記念館とメールや電話でのお申し込みにより、5,000円で頒布してきましたが、都内の下記の書店、茅ヶ崎市内書店でも購入が可能になりました。

(都内)
ジュンク堂書店池袋本店3階
三省堂書店神田本店1階
(茅ヶ崎市内)
長谷川書店
川上書店
文泉堂書店

なお、これまでどおり、開高健記念館および電話、メールでの郵送による申し込みも受け付けています。

お申し込み
開高健記念館 TEL&FAX 0467-87-0567
開高健記念会 TEL&FAX 03-5303-8621
e-mail kaiko@k9.dion.ne.jp