開高健記念会

開高健記念会ニュース

このNEWSページでは、開高健記念会の活動の現況を中心に、開高健関連のさまざまな情報もお知らせしていきます。

第59回紅茶会、講師は菊池治男氏

釣魚紀行『オーパ!』シリーズで知られ、開高健記念会理事でもあり、2007年9月3日に急逝された写真家の高橋曻さん。開高健と高橋さんとの思い出を、同シリーズでふたりの取材に同行した編集者・菊池治男氏が語りました。

開高先生と高橋曻さんは年齢で19歳離れて いた。高橋さんの追悼をかねて思い出を話せということだったので、師とも父とも慕い、風貌が似てきたと言われることを喜んでもいた高橋さんと、開高さんと を、あえて比較しながら話したい。ふたりから「なんやて、比べんといてんか!」と文句が来そうだけれど……。
ふたりの旺盛な食欲、気持ちいいまでの大食らいぶり。アマゾンやニューヨークでのエピソード。弟子に厳しかった高橋さんと、新人の賞で厳しい基準で臨んで いた開高さん。開高さんは「賞はその人の人生を変える。慎重にならないわけにはいかないんや」という。これも優しさのかたちであり、あるいはご自身の芥川 賞受 賞前後の体験が影響しているのかもしれない。高橋さんは、厳しく鍛えた多くの弟子たちから慕われた。また、涙もろかった高橋さんと、たった一度だけ眼 にしたように思った開高健の涙のこと。アマゾンの河の上でにわか助手をしながら見た、カメラマンという職業のすごさと、小説家の、ノンフィクションを書く うえでのモノの見方との共通点など。

ふたりの傑出した表現者の現場に、世界のあちこちでじかに接する機会のあったことに感謝したい、と結ばれました。

カテゴリ:紅茶会 2008-02-05

第58回紅茶会 講師は永山義高氏

企画展示「ずばり東京」展に因んで、元朝日新聞役員で週刊朝日で「ずばり東京」「ベトナム戦記」などの連載を担当された永山義高氏が「ずばり東京」のころの関連年譜や連載当時の58回分の目次などのコピーを資料に講演されました。

まず、この3月に亡くなった茅ヶ崎在住の城山三郎さんが、亡くなる直前に娘さんとこの開 高健記念館に来たことを娘さんの著書で知って、感慨深かった。ルポと文学の舞台裏、戦争の魔力への興味など、二人の共通点を思った。
「ずばり東京」の連載は東京オリンピックの前の年、昭和38年10月4日号から始まっ た。当時の芦田編集長の「若い作家で元気のいいルポを!」という一言で始まった。自分は後半の3分の1を担当した。タイトルは当初「ずぶり東京」(当時の 副編集長の案)だったが、開高さんが「ずぶり、はどうも」というので「ずばり」に落ち着いた。東京の人口はこの年1000万人を超えた(現在は1270万 人)。山手線の初乗り10円、公衆浴場23円の時代。オリンピックによる国威発揚の舞台となる、変わり行く東京を描くこの連載は、大変好評だった。「東京 というものを主人公に物語を書きたい」と言っていた開高さんだったが、連載が終わって3週間後に旅立ったベトナムで、その文学のコースが変わったといえ る。
ベトナムの連載でも、一晩で1回分を書き上げる。締め切りは守っ た。ノンフィクションについて、文春文庫「ずばり東京」の「後白」に「ノン・フィクションといっても、目撃したり感知したりしたすべてのイメージを言葉に おきかえることはできないのだから、それはイメージや言葉の選択行為であるという一点、根本的な一点で、フィクションとまったく異なるところがない」とあ る。思えば一つの「転機」の時代だった。ノンフィクションにおける文体の自由化は、開高さんから始まった。

カテゴリ:紅茶会 2007-11-06

第57回紅茶会 講師は豊田健次氏

文芸編集者として30余年。多くの作家・文人たちと交流を持ってこられた元文藝春秋社の豊田健次(開高健さんらによる愛称は“豊健”)さんを講師に迎えて、8月26日(日)開高健記念館で行われました。

自己紹介を兼ねて略歴にそって申し上げると、昭和34年に早稲田の文科を卒業し、文藝春秋に入った。週刊文春の創刊にあたり、すぐ出版局に配属され、村松剛さんや佐伯彰一さんと酒場へ行ったおりに開高さんと知り合った。開高健体験はそれに遡る昭和32年、「文学界」に載った芥川賞受賞作を学生の間で回し読みしたとき。大江健三郎さんの作品も同時掲載で、新しい文学の時代の到来を感じた。しかし、開高さんの作品には生意気ながら予定調和的なものを感じ、個人的には大江さんのほうを評価した。

受賞第一作「なまけもの」はショックだった。受賞もむベなるかな、という感想を持った。それから遡って「パニック」を読み、感動、賛嘆。当時流行の「組織と文学」とは違う、生き生きとした、新しい人間観察があると思った。

時々さっそうと文春に現れては、当時出版局長だった池島信平とノンフィクション論を展開していたが、小説誌の編集者としては、「文学界」にも書いてくださいよ、と言いたかったのを覚えている。

「青い月曜日」の連載を、中断のあとから担当した。各回を、自分から大日本印刷の出張校正室にカンヅメになって書き上げていたのを思い出す。昭和46年「文学界」へ移り、「ロマネ・コンティ・1935」をいただいた。昭和49年「オール読物」へ。昭和51年「文学界」編集長になった。丸谷才一さんのプランで始めた対談時評は、開高さんが 第1回だった。また、「日本でいちばん尊敬する作家。『山月記』ではなく『わが西遊記』」と、中島敦というマイナーポエットを梶井基次郎とともに評価していた。

安岡章太郎さんによると「なんでも知ってる開高」、吉行淳之介さんによると「ヘンなやっちゃ」が開高健評だった。安岡、開高はシャンソンの達人だったが、開高さんは歌詞の2番、3番まで知っていた。耳のいい方ではないか。昭和42年か43年、野坂昭如さん登場で、「文学界」で「われら焼跡闇市派」という対談をやった。これは私の命名だが、焼跡闇市派という言葉が一人歩きした。

茅ヶ崎の家(現在の開高健記念館)で編集者を集めて、ハモ尽しで白ワインを飲んだ。ここへ来ると、あの時のハモの梅肉あえの味を思い出す、と結ばれました。

カテゴリ:紅茶会 2007-09-25

第56回紅茶会 講師は青羽芳裕氏

日本パイプスモーカークラブ世話人・日本葉巻愛好家協会副会長で、読売新聞社の青羽芳裕さんが、パイプ愛好家としての開高健と、そのタバコ関係のコレクションについて語りました。

マイクを手にお話される青羽芳裕さん

予備校に通っていたころ、開高健の記念講演を聴いたのが、開高さんを見かけた最初だった。上体にくらべて足がスマートだなというのが印象だった。サントリーの入社試験を受けると雑誌の「洋酒天国」がもらえると聞きつけて、友人と受けに行って、もらって帰ったこともあった。読売では広告の仕事をしていて、担当していたTBSブリタニカで初めてご挨拶した。

パイプがこんなに似合う作家は他にいない。パイプクラブ・オブ・ジャパン(PCJ)の「ベストパイプスモーカー賞」というのを、開高さんにもらって頂いた。開高さんからは「キャプテン・ブラック」という作家愛用のパイプタバコを頂いた。

最後にお目にかかったのは病気をされてから。「ジンギスカンの墓あばきをするんや」というような言い方をあえてされていた。

記念館にあるジッポやダンヒルのライター類――これらはすべて作家の愛用したものだったが――を取り上げて、ひとつひとつ由来や解説を加える。オーストリア製のイムコ。ダンヒルの軍用ライター……。

ダンヒルの「Author(著者)」というパイプを愛用されていたが、ブランドへの憧れと同時に、この名前にも惹かれていただろう。ただ、最も愛したパイプはデンマークのゲルト・ホルベックが作ったパイプだったのではないかと思う。記念館にもあるが、この細身のパイプは、ほんとうに飽きのこないものだ。開高さんは、こうしたもののコレクターではなく、「使う人」だった。

カテゴリ:紅茶会 2007-09-01
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