開高健記念会

「ごぞんじ開高健」より

それぞれの開高健を語る「紅茶会」講演。その内容などを収録した資料集「ごぞんじ開高健」から連載でお届けします。

連載開始 「ごぞんじ開高健」より 第1回 菊谷匡祐〈開高健のいる風景〉

語り手◆菊谷匡祐(作家・翻訳家 1935-2010)◆

●「アジアで起こっている戦争を見たい」

皆さんの中にも当時、開高さんがベトナムに行って「週刊朝日」や「朝日ジャーナル」に書いたルポをお読みになった方もおられるでしょうが、ある日彼は南ベトナム政府軍に従軍し、ベトコンの急襲を受け、二百人中生き残ったのがわずか十四人という惨事に遭遇する。さらにサイゴン市内で、ベトコンとおぼしき人が銃殺される場面を目の当りにするに及んで、当然痛烈なショックを受け、考えるところがあった。

もともと開高さんがベトナムに行きたいと思った理由は、アジアで起こっている戦争を見たいということだった。その体験をノンフィクションを書こうとなると、世界中に彼のライバルとでもいうべき人が何人もいて、例えばそれはジョン・リードであり、アンドレ・ジイドであり、グレアム・グリーンのベトナム報告もありで、そういう人たちを頭のなかでライバル視しながら書くつもりだったのだと思うんですが、実際そうやって戦場に行ってみると、やっぱり肉食人種と草食人種の違いをまざまざと見てしまったと言いますか、「戦争ははたから見ていると壮大なページェントである」というヘミングウェイの言葉のようには思えなくなる。そして当初の単純と言えば単純な動機からではなく、一人の生身の人間として戦争と向き合うことになった。その瞬間から開高さんの目は外側にではなく内側、つまり自分の内面へ向いていくようになったんだと思います。

で、内面に向かった目から『輝ける闇』が生まれ、『夏の闇』へと結実していった。そして『花終る闇』を加え、闇三部作というものになるわけですが、いみじくも「闇」という言葉を使ったところに、開高さんの心の葛藤と言いますか内面の有りようが、あるいは彼がどんなことを考えていたのか――私には難しいですけど――想像できる人には想像できるのではないでしょうか。

●ただ寝ているだけという物語

 『輝ける闇』はもちろんベトナム戦争を舞台にした小説ですが、『夏の闇』は一変してまったく違うものになっている。どういう内容かというと、昔、東京で妻子のいる主人公と知り合い彼を愛するようになった女性が、結婚できないことに絶望していわば海外へ逃亡するわけです。それでなんと「アー・ベー・ツェー(ABC)」もできないのにドイツに行く。でも語学の才能があったのかボン大学の客員になってそこで勉強しているとき、たまたま主人公がパリに行く機会ができて、彼女と久しぶりにパリで会うところから話が始まるわけです。それから二人はパリやボンで、あるいはときにバイエルンの高原地帯へ釣りに出かけたりして、開高さん自身に言わせると、彼らは「パンツをはかない生活」を続けるわけですね。

パリではホテルの部屋で、ボンへ行けば彼女の寄宿舎で、とにかくセックスと会話だけで終始し、あとは主人公は眠っているだけの、そういう話なんです。 昔から『三年寝太郎』とか『オフローモフ』とか寝ているだけという人間の話がないことはない。でも、あそこまで盛大にただ寝ているたけという物語なんて、近代文学や現代文学にはほとんどありませんし、それを延々と書いていくその筆力にはなんとも私は圧倒されました。

●書くという仕事の残酷な一面

もちろん主人公が開高健自身だとしても、女が実在の女性であるのかどうかは断定できません。ただこの作品が「新潮」に一挙に掲載されて、それを読んだうちのカミさんが「作家というのは残酷ね」と言うわけですよ。残酷というのは家族に対して――この場合は奥さんに対してということになるのでしょうが、これは開高さんが書いた話で、私やうちのカミさんには何の関係もないことなのに「あなたは小説なんて書かなくていいわよ」とか言ったりしましてね(笑)。

確かに書く仕事――小説を書くという仕事にはそういう残酷な一面があるのかもしれません。考えてみたら例えば檀一雄さんにしてもそうだったし、何か小説の完成度を高めるために家庭内に悶着を起こすといった例もないわけじゃありませんしね。まあ、開高さんの家でそういう悶着があったかどうか、それはここでは言わないことにしておきますが。

(『ごぞんじ開高健 開高健記念会〈紅茶会〉講演集Ⅰ』 菊谷匡祐 「開高健のいる風景」より)

カテゴリ:「ごぞんじ開高健」より 2013-05-14